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大津地方裁判所 昭和47年(ワ)129号 判決 1975年10月20日

原告

松岡こと李仁会

ほか一一名

被告

土井英三

ほか三名

主文

一  被告土井英三、被告株式会社山崎砂利商店、被告西村勝は各自

(1)  原告李仁会に対し金五六〇万六、五〇七円および内金五一〇万六、五〇七円に対する昭和四七年六月二五日以降支払済に至るまで年五分の割合による金員を、

(2)  原告鄭京植に対し金八二九万一、二四九円および内金七三四万一、二四九円に対する昭和四九年一月一日以降支払済に至るまで前同率の金員を、

(3)  原告金讃柱に対し金八五〇万四、一五〇円および内金七七五万四、一五〇円に対する昭和四六年一月二五日以降支払済に至るまで前同率の金員を、

(4)  原告金福伊に対し金一、二七九万三、四五一円および内金一、一七九万三、四五一円に対する昭和四八年三月四日以降支払済に至るまで前同率の金員を、

(5)  原告李分出に対し金九三万五、〇六五円および内金八五万五、〇六五円に対する昭和四六年一月二五日以降支払済に至るまで前同率の金員を、

(6)  原告鄭龍瑞に対し金六一万五、一六八円および内金五六万五、一六八円に対する前同日以降支払済に至るまで前同率の金員を、

(7)  原告鄭泰瑞、同鄭学瑞、同鄭閏瑞に対し各金五〇万〇、一一三円および内金四六万〇、一一三円に対する前同日以降支払済に至るまで前同率の金員を、

(8)  原告鄭玉伊、同鄭今礼、同鄭順礼に対し各金三三万二、五二八円および内金三〇万二、五二八円に対する前同日以降支払済に至るまで前同率の金員を、

各支払え。

二  原告らの第一項掲記の被告らに対するその余の請求および被告西村太市に対する請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用は、

(1)  原告李仁会、鄭京植、金讃柱、金福伊と被告土井英三、山崎砂利商店、西村勝間に生じたものはいずれもこれを五分し、その二を各原告の、その余を右被告らの負担とし、

(2)  原告李分出らその余の原告らと右被告らとの間に生じたものはこれを三分し、その一を同原告らの、その余を被告らの負担とし、

(3)  原告らと被告西村太市との間に生じたものは全部原告らの負担とする。

四  第一項は仮に執行することができる。

事実

第一申立。

(原告ら)

被告らは各自

原告李仁会に対し金一、二九五万円および内金一、二一五万円に対する昭和四七年六月二五日以降完済まで年五分の割合による金員を、

原告鄭京植に対し金一、八五五万二、六九四円および内金一、七〇五万二、六九四円に対する昭和四九年一月一日以降完済まで前同率による金員を、

原告金讃柱に対し金一、三二八万〇、一五〇円および内金一、二四八万〇、一五〇円に対する昭和四六年一月二五日以降完済まで前同率による金員を、

原告金福伊に対し金二、七六九万一、四六四円および内金二、五六九万一、四六四円に対する昭和四八年三月四日以降完済まで前同率による金員を、

原告李分出に対し金一五五万八、六九三円と内金一四五万八、六九三円に対する昭和四六年一月二五日以降完済まで前同率による金員を、

原告鄭龍瑞に対し金一二七万六、〇八二円と内金一二二万六、〇八二円に対する前同日以降完済まで前同率による金員を、

原告鄭泰瑞、鄭学瑞、鄭閏瑞らに対し各金九六万七、三八八円と内金九一万七、三八八円に対する前同日以降完済まで前同率による金員を、

原告鄭玉伊、鄭今礼、鄭順礼らに対し各金五〇万四、三四七円と内金四五万四、三四七円に対する前同日以降完済まで前同率による金員を、

各支払え。

訴訟費用は被告らの負担とする。

との判決と仮執行宣言。

(被告ら)

原告らの請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

第二主張。

(請求原因)

一  交通事故(以下これを本件事故という)の発生

発生日 昭和四六年一月二四日、午前一〇時四五分頃

発生場所 滋賀県高島郡高島町鵜川字宮前地先国道上(以下これを本件国道または本件事故現場と称する)

加害車 甲車 普通乗用自動車(泉五五す八九四八号)被告土井英三(以下被告土井と呼称)運転

乙車 大型貨物自動車(滋一り一一二四号)被告西村勝(以下被告勝と呼称)運転

被害車 丙車 普通貨客自動車、原告李仁会運転 同乗者 原告鄭京植、同金讃柱、同金福伊、訴外鄭徳守他一名

事故の態様 前記日時場所において甲車が丙車を追越後、センターライン上で対向進行中の乙車と接触事故を起し、その後乙車が対向車線上にとび込み急拠停車した丙車に正面衝突させたもの。

二  責任原因

(一) 被告土井は甲車を被告勝は乙車を各所有し、事故当時自ら運転していたもので自賠法三条に基づき原告等の蒙つた損害を賠償する責任がある。

(二) 被告株式会社山崎砂利商店(以下被告会社と呼称)は被告勝を同社の砂利運搬の業務に従事させるため専属的に下請せしめ同人は専ら乙車を利用して右業務に従事していたもので本件事故当時も被告会社の指図に従つて同社の為に砂利を運搬する途中であつた。よつて被告会社は自賠法三条に基づき原告等の蒙つた損害を賠償する責任がある。

(三) 被告西村太市(以下被告太市と呼称)は被告勝の実父であるところ、被告勝が資力に乏しいため昭和四六年九月二八日原告らに対し同人の原告らに対する損害賠償債務を保証した。

三  本件事故の結果

(一) 本件事故により原告李仁会、同鄭京植、同金讃柱、同金福伊はそれぞれ別表第一記載のとおりの損害を負い、同表どおり入、通院して、同表どおりの後遺症が残つた。

(二) 本件事故により鄭徳守は頭蓋底骨折等の傷害を受け、昭和四六年一月二四日午前一二時頃死亡した。

四  損害

(一) 原告李仁会、同鄭京植、同金讃柱、同金福伊が前記受傷のため蒙つた損害はそれぞれ別表第二各請求欄記載のとおりである。しかして、

(1) 同表入院附添費は、別表第一の入院期間中要附添日数(それはいずれも担当医師の診断によつて必要とされたもの)を各原告の家族等が附添つたもので、一日につき金一、〇〇〇円の損害とした。

(2) 同入院雑費は、前同入院日数合計につき一日金三〇〇円の割合とした。

(3) 原告金讃柱の家庭介護費は左の理由による。

同原告の後遺障害(四級)は、退院後も独力で起居など日常生活がなし得ない重篤なものであり、家人が介護に従事することを余儀なくされている。この日額を少な目にみて五〇〇円とし、期間を昭和四七年四月二九日から余命年数以内の一〇年として、ホフマン式にて中間利息を控除すると、その現価は次のとおり

五〇〇円×三六五×七・九四四=一、四四九、七八〇円

となる。

(4) 各原告の休業補償、逸失利益の算定根拠は次のとおりであり、逸失利益についてはいずれもホフマン式によつて中間利息を控除して現価額を算出するものである。

(A) 原告李仁会

同原告は糸商並びに薬種商をその業とし、昭和四五年度の申告所得額は金五三七万五、〇〇〇円であつた。

(イ) 本件事故後一年間は全く稼働し得なかつたから、右一年分の所得額を休業補償とする。

(ロ) 同原告の後遺症等級(九級)の労働能力喪失率は三割五分であり、少くとも症状固定後五年間は継続するから、逸失利益は

五、三七五、〇〇〇円×〇・三五×四・三六四=八、二〇九、七七五円

となる。

(B) 原告鄭京植

同原告の事故前の年収は二〇〇万円を下らない。すなわち、同原告は永年土木工事関係の仕事に従事し、昭和四二年一一月当時被雇先の職場における労災事故によつて受けた労災給付の算定基礎日給は金六、四一七円であつた。また、本件事故当時は訴外洪山次郎に雇われて二〇〇万円の年収を得ていた。

(イ) 同原告は本件事故により少くとも満二年は稼働できなかつたから休業補償は金四〇〇万円となる。

(ロ) 同原告の後遺症等級八級の労働能力喪失率は四割五分であり、昭和四八年一月当時同原告は四五歳であつたから、六七歳までなお二四年間就労可能であるから、逸失利益は

二〇〇万円×〇・四五×一五・四九九=一三、九四九、一〇〇円

となる。

(C) 原告金讃柱

同原告は撚糸商(糸を加工して織物を作り、織物業者に納入して加工賃を得るもの)、糸商(加工過程上ロスとして生じた糸を集荷販売するもの)を営み、本件事故前の年収は二〇〇万円を下らない。因みに昭和四五年度における同人の右営業収益は、

売上金額 経費 純利益

撚糸商 四、五〇九、八七六円 二、四五一、〇九六円 二、〇五八、七八〇円

糸商 四、三二三、〇二〇円 (利益率二割) 八六四、六〇四円

に達している。

同原告は前記受傷および後遺症により全く就労不能となつたが、本件事故当時六一歳であつて、なお七年は就労可能であつたからその逸失利益は

二〇〇万円×五・八七四=一一、七四八、〇〇〇円

となる。

(D) 原告金福伊

同原告の本件事故前の年収は三〇〇万円を下らない。すなわち、同原告は各種くず物(廃品)を収集してこれを他に販売することを業としていたが、昭和四五年中に販売した販売先と代金額は左のとおりである。

品名 販売先 代金額

鉄くず 栄和金属興業 一、二〇四万四、五九九円

右同 京華産業 一、二一四万七、〇〇〇円

右同 日商岩井 四九六万七、二一八円

いろ物 近畿産業 四〇五万七、六二一円

ウエス 新井商店 二〇八万五、〇〇〇円

糸くず 今井商店 一九六万六、五七三円

くず紙 黒田紙業 一一一万一、五八九円

合計 三、八三七万九、六〇〇円

そして、同年度の同原告の所得申告によれば利益率は八分九里三毛となるから、純利益は

三八、三七九、六〇〇円×〇・〇八九三=三、四一五、七八四円

となり、三〇〇万円を下ることはない。

(イ) 同原告は本件事故から症状固定時までの二年と三七日を働くことができなかつたから、年収三〇〇万円として休業損害は六三〇万四、一〇〇円となる。

(ロ) 同原告の後遺症等級四級の労働能力喪失率は九割二分であるが、少な目に七割として、右症状固定時の年令が四八歳であるから、なお一五年間は就労可能であり、その逸失利益は

三〇〇万円×〇・七×一〇・九八=二三、〇五八、〇〇〇円

となる。

(5) 右原告らの前記受傷の程度、入通院の期間、後遺症の程度に照らし慰謝料は各同表記載額を相当とする。

そして、右原告らは、それぞれ、右同表記載の一部弁済を得ているから、これを前記損害から控除した残額は各同表残損害欄記載のとおりである。更に右原告らはそれぞれ弁護士費用として同表記載の金額を要したがこれは本件事故と相当因果関係にある損害である。よつて右原告らは右残損害と弁護士費用の合計額(但し原告金讃柱についてはその内金)たる各請求趣旨記載の金額と弁護士費用を除く部分につき原告李仁会につき訴状送達の翌日、原告鄭京植、金福伊につき各後遺症固定日以後の日である請求趣旨掲記の日、原告金讃柱につき各不法行為日の翌日以降支払済に至るまで年五分の割合による法定遅延損害金との支払を求める。

(二) 鄭徳守の死亡による損害は左のとおりである。

(1) 同人の逸失利益

同人は本件事故時近在の農家から米を買い集め、これを一括して川西商店(大阪市西成区玉出本通五丁目五八)に販売して生計を立てていた。その昭和四五年中における取引高は七、二〇〇俵であり、一俵につき四〇〇円の収益があり、同人の生活費は三割と考えられるから、差引年間利益は二〇〇万円を下らない。同人は本件事故時六八歳の健康な男子であり、本件事故により死亡しなければ就労可能年数範囲内の五年間は就労し得たから、その逸失利益は

二〇〇万円×四・三六四=八七〇万円(一〇万円未満切捨)

となる。

(2) 法例二五条によると、相続は被相続人の本国法によるべきところ、鄭徳守の国籍は朝鮮であり、右における住所は大韓民国内であるから、同人の相続には韓国民法が適用されるところ、同法一、〇〇〇条、一、〇〇三条によるとその相続人は同人の妻たる原告李分出と子たる原告鄭龍瑞、同泰瑞、同学瑞、同閏瑞、同玉伊、同今礼、同順礼であるが、同法一〇〇九条、九八〇条、九八四条、九八五条によるとその相続分は、原告李分出が二三分の二、原告鄭龍瑞が二三分の六、原告鄭泰瑞、同学瑞、同閏瑞らがそれぞれ二三分の四、原告鄭玉伊、同今礼、同順礼がそれぞれ二三分の一となる。

(3) 前記(1)の逸失利益を右(2)の相続分に従い右原告らが相続した結果は別表第三の(一)記載のとおりである。

(4) 原告らは自賠責から金四九二万円、被告らから合計二三万円総計五一五万円の弁済を受けたので、これを別表第三の(一)記載のとおり前記相続分に応じ分配し、右逸失利益相続債権の内金に充当した。

(5) 原告李分出は別表第三の(一)記載の葬儀費用を支出した。

(6) 一家の支柱であつた同人の死亡により家族らの受けた打撃は大きく、その慰謝料は、それぞれ別表第三の(一)記載の額が相当である。

(7) 右原告らの支出する弁護士費用は右同表記載のとおりである。

よつて、右原告らは、別表第三の(一)記載の損害合計と弁護士費用の合計額である請求趣旨記載の金額と内弁護士費用を除く部分につき不法行為日の翌日以降完済まで年五分の法定遅延損害金との支払を求める。

(答弁)

一  被告土井

(一) 請求原因一項の事実は原告主張の日時頃、主張の場所で、甲車と乙車が接触事故を起し、次いで乙車が対向車線上に飛び込み、丙車と衝突したことは認めるが、乙車と丙車との衝突と、甲車の運行との因果関係は争い、その余は認める。

(二) 同二項の(一)は争う。

(三) 同三、四項の事実は全部争う。

二  被告西村両名

(一) 請求原因一項の事実は、乙車が加害車であること、甲車と乙車との接触がセンターライン上であることを否認し、その余は認める。甲、乙車の接触は乙車の走行車線上で起つたものである。

(二) 同二(一)中、被告勝が乙車を保有し、自ら運転していたことは認める。

(三) 同二項の(三)の事実は争う。

(四) 同三、四項の事実は全部争う。

三  被告会社

(一) 請求原因一項の事実は丙車の同乗者は不知、その他は認める。

(二) 同二項(二)は争う。被告会社はその営業品目の砂利の運搬を被告勝に請負わせていただけである。

(三) 同三、四項の事実は不知。

(抗弁)

一  被告ら(但し、被告会社、西村両名は仮定抗弁)

原告金福伊の請求中、昭和四六年六月二六日付準備書面によつて拡張された部分中、および原告鄭京植の請求中同年一二月二日付準備書面によつて拡張された部分中、それぞれ右書面提出の日から三年以前までに発生した事実に基づく請求は、民法七二四条により時効消滅している。

二  被告西村両名

(一) 左のとおり本件事故は甲車の運転者たる被告土井の過失に基づき、被告勝は無過失であり、且つ乙車には構造上の欠陥および機能上の障害はなかつた。

(1) 被告勝は乙車を運転して本件国道上を時速五〇粁位で、センターラインの左側車線中央部を今津町方面に向け北進していたが、本件事故現場附近で、その直近前方にセンターラインを大きく越えて対向進行して来る甲車を認め、危険を感じ僅かにハンドルを左に切るとともに(乙車の左側には二、三〇糎位しか道路の余裕がなく、大きく左には切れなかつた。)、ブレーキを踏んだが、次の瞬間甲車の右前部が乙車の右前部に衝突し、その反動で乙車は対向車線に向つて暴走し、乙車の前部と丙車の前部が衝突した。

(2) この様に甲車と乙車との衝突は、甲車の運転者である被告土井がセンターラインを大きく越えて進行した同人の一方的過失に起因するものであり、乙車の対向車線への暴走は、右衝突の反動で起つたものであるから、乙車と丙車との衝突もまた右被告土井の一方的過失に起因し、被告勝にとつては不可抗力によるものである。

よつて、被告勝には損害賠償の責任はない。

(二) 原告らは被告勝より更に一〇〇万円の弁済を受けている(〔証拠略〕)。

三  被告会社(仮定抗弁)

被告西村両名の抗弁を援用する。

(抗弁に対する原告らの答弁と反論)

一  時効の抗弁について。

被告らの主張に該当するものとして、原告金福伊につき慰謝料の拡張部分、原告鄭京植につき附添費用中二万円が存するだけである。

しかして、前者については、慰謝料の拡張は何時でも許されるべきであるし、とくに右拡張は、その後の後遺症確定に基づくものである。

後者は、当初請求の治療費二四四万二、三八八円が、新請求において一七九万四、六九四円に減少しているので、請求総額として増加していないので、右請求も許されると考える。

二  被告西村両名・被告会社の運転者無過失の抗弁について。

否認する。

三  被告西村両名の弁済の抗弁について。

主張の一〇〇万円は、訴外鄭貴奉を含め六名の被告者が一人当り一六万円ずつ分配し、残余は原告李仁会と金福伊が各二万円を受領した。しかして、右一六万円の弁済受領は別表第二の一部弁済額中に含まれている。よつて、右両名につき二万円ずつの弁済受領を認める。

第三証拠関係〔略〕

理由

第一事故の発生と被告らの責任の存否について。

一  昭和四六年一月二四日午前一〇時四五分頃、滋賀県高島郡高島町鵜川字宮前地先国道一六一号線上において、今津行路線上を進行中の乙車が中央分離線を越えて大津行路線上に進入し、同路線上を進行中の丙車と正面衝突する事故(以下これを本件事故という)が発生したこと、およびその直前、同国道上において、今津方面に向け進行中の乙車と、大津方面に向け進行中の甲車とが衝突する事故(以下これを第一事故という)が発生していることはいずれも当事者間に争いがない。

原告らは、本件事故の発生は、右第一事故に起因するが故に、甲車の運行によつても生じたものであると主張し、被告土井はこれを争い、他方被告西村両名と被告会社(以下この項中、単に被告西村らと呼称)は、第一事故は専ら甲車の運転者たる被告土井の一方的過失に起因するとともに、本件事故は、第一事故の結果不可抗力的に引き起されたから、本件事故につき乙車運転者(被告勝)は無過失である旨抗弁するので、この両争点を本件事故の態様に基づき一括して判断する。(なお、この乙車運転者無過失の抗弁は、被告会社につき仮定抗弁ではあるが、便宜同被告の関係でも一緒に判断する)

二(一)  〔証拠略〕を総合すると次の事実が認められる。

(1) 本件事故現場は、今津町から大津市へ通ずる右国道が高島町勝野と鵜川の間において、びわ湖沿いにほぼ東西に通ずる四九・六キロポスト(以下これを「基点」と略称して、事故地点等の距離関係の説明に用いる)附近であつて、その辺りでは歩車道の区別なく、幅員は約七米でアスフアルト舗装された平坦な道路となつているが、基点の東側(今津寄り)において右方(南側)にゆるくカーブしている。道路の両側端と中央には、いずれも幅一五糎の白線で車道外側線と中央分離線とが引いてあり、同分離線の南側が大津行車線、北側が今津行車線である。両車線とも車線幅は三・一〇米であり、今津行車線の外側線から道端までは〇・三〇米である。道路の両側は旧江若鉄道の鉄路敷を隔ててびわ湖に接し、北側は竹藪となつている。なお当時道路は雪解けのため湿潤していた。

(2) 乙車は大型貨物自動車(いわゆるダンプカー)であつて、被告勝が運転し、制限積載重量一〇・二五屯のところ、当時一三屯の砕石を積んで時速約五〇粁で、車体の右側がほとんど中央分離線にかかる位の位置で今津方面に向け今津行車線上を進行していた。

一方甲車は普通乗用自動車(コロナ)であつて、被告土井が運転し、今津方面から大津方面へ向け、進行していたが、被告土井は、後記本件事故発生地点の百米位今津寄で、まず同方向に進行中の丙車を追い越し、次いで一旦大津行車線に戻つたが、その後も時速約四〇粁前後で中央に寄り、しばしば甲車の右側が中央分離線を超え今津行車線の方へ侵入するほど右寄りに進行していた。

(3) 被告勝は、乙車が基点の西約一二・八〇米位に達したとき、約二八・八〇米前方に、右の様にして中央分離線から自己の走行車線へはみ出して対向して来る甲車を目撃したが、そのまま約六米位直進してから、甲車との接触を避けるべく乙車をやゝ左へ寄せて進行した。そして乙車が、今度はその車体左側が今津行車線の外側線を超える位に左へ寄りながら更に約一一・六〇米位進み基点の東方約四・六〇米位の線に達したとき、その右前車輪タイヤに、前記中央分離線を超えて対向して来た甲車の右前部フエンダーが衝突した(第一事故の発生)。なお乙車の車幅は約二・四八米であるから前記(1)の道幅から推して、仮に乙車の車体左側が外側線にかかつたとき同車の右側端から中央分離線までの間隔は約六〇糎ほどが残されることとなるが、乙車は右のとおり、外側線を更に左へ超えていたから、右衝突時の乙車右側端から中央分離線までの間隔はそれよりもやや多い目であつたこととなる。

(4) 右衝突の衝撃により、甲車はその後部を大きく右に振られるとともに操行自由を失つて道路に直角の角度となつたまま約八・八〇米横すべりして基点の西方約三・八〇米の地点に大津行車線を横向きにふさいで停止した。一方乙車は、右衝突と同時に、始め瞬間的には、やや進路左(薮側)へ向きを換えたが、幾ばくもなくして進路を右(びわ湖側)へ換えて一直線に大津行車線へ突込み、折から同車線を対向して来た丙車と基点の東方約一七・六〇米の線で正面衝突し(本件事故の発生)、そのまま丙車を後へ押し乍ら道路の南側旧鉄路敷内へ向けてななめに約一八米位暴走して停止した。従つて丙車は押されたまま旧鉄路敷内へ後退するを余儀なくされた。

なお、第一事故発生時点の丙車の位置は、基点の東方約三〇米位であつた。

(5) 第一事故発生前まで、乙車にはハンドル、ブレーキ等に異常はなかつたが、本件事故後行われた実況見分においては、ブレーキに異常はなかつたが、前輪タイロツドが大きく曲つていた。

(二)(1)  〔証拠略〕中には、被告勝は、甲車の発見後直ちにブレーキを踏んだ旨の供述ならびに供述記載が存する。しかし、

(イ) 前認定の第一事故後の甲、乙両車の動きからみて、乙車は相当のスピードのまま甲車と接触し、その後も、その走力が弱まつたとは認められないのであつて、乙車が積載一三屯であつたことを考えても、ブレーキを踏んでいてなお且つ本件の様な結果が発生すること自体に疑念を持ち得ること。

(ロ) 事故発生後直後と、昭和四六年五月二七日とに行われた両度の実況見分の際、いずれもブレーキを踏んだという点につき、積極的な申告がなされてはいないこと。(〔証拠略〕ともその点に触れた記載はない。)

(ハ) 事故直後の実況見分によると事故後第一事故地点から、本件事故地点までの間スリツプ痕もなく、被告勝が甲車を発見したと思われる地点から第一事故地点までにも、ブレーキを踏んだ痕跡はない。(この点被告勝は、〔証拠略〕中に「スリツプが生ずるほどのブレーキではない」と述べているけれども、本件事故の発生を防止するに充分なブレーキの踏み方をした場合でも、当時湿潤していた道路に、事故後三〇分ほどで開始された実況見分時なおその痕跡を残さないで済むとすることにもまた疑念を禁じ得ない。)

(ニ) 〔証拠略〕はなおその点においてあいまいさを残している。

以上の点に照らし、右ブレーキに関する〔証拠略〕はたやすく措信し難い。

(2)  〔証拠略〕によると、被告勝が甲車を発見したのも、五、六〇米以上の前方であつたかの如くにも判断されている。しかして、右判断がいかなる証拠によつたものかは、同判文上必ずしも明らかでないが、本件証拠中これに副うものは、前掲甲第二一、二六、二七、二九の二の各号証がある。しかし、うち第二一号証は被告土井の指示説明に基づく、昭和四六年九月九日検察官施行の実況見分調書、第二六、二七号証は被告土井の検察官に対する供述調書、第二九号証の二は同人の刑事第一審第四回公判調書の同人の供述記載部分であつて、いずれも、被告土井の方から乙車を発見したときの甲、乙両車の隔たりを示すに止り、その被告土井が乙車を発見した時点で、同時に被告勝もその距離から甲車の動きを認識し得ていたとの証拠となすを得ない。これに対し前認定の二八・八〇米は、被告勝の指示説明に基づき事件直後に行われた実況見分調書である甲第二二号証の記載を採つたものであるが、右甲第二二号証とさきの甲第二一号証とにおける衝突地点を中心とした甲乙両車の動きを比較してみると、左図のとおり、甲第二一号証では、衝突地点から二五米の距離に甲車がいたとき、乙車は三四米であるのに対し、甲第二二号証では同じく甲車が一一・三〇米のとき、乙車が一七・六〇米となつて、乙車が甲第二一号証の地点から甲第二二号証の地点へ一六・四〇米進む間に甲車も一三・七〇米進んでいることとなつて、被告勝が甲第二二号証に指示した様な位置関係で甲車の動きに気付いたとみることも、甲第二一号証等における被告土井の指示・供述と必ずしも矛盾するものではない。

(参考図)

<省略>

そして、右甲第二二号証を措いて他に被告勝が、もつと早期に甲車の動きに気付き、又は気付き得べかりであつたとする証拠もないので当裁判所は前記のとおり、この点については甲第二二号証を採つたものである。

なお、前認定の乙車の時速を五〇粁、甲車の時速を四〇粁とすると、右の図で乙車が甲第二一号証地点から甲第二二号証地点へ進むのが一・八〇八秒、甲車のそれが一・二三三秒、乙車が甲第二二号証地点から衝突地点へ進むのが一・二六七秒、乙車のそれが一・〇一七秒であつて、完全には合致しないが、右認定はいずれも、両被告のそれぞれの供述に基づくものであつて、いずれも「そのぐらい」と認めざるを得ないものであり、また両車の事故に連る微妙な動きを考慮すれば、この程度の誤差ならば、それぞれの時速を約前認定のとおりとしたことは大きな誤りはないものと考える。

(3)  甲第二二号証には乙車につき「制動操向装置とも異常は認められない」と記されているが、右は甲第二三号証の二に照らし、タイロツドの曲りの点に関する限り、記載洩れと認められる。

(4)  〔証拠略〕中第一事故の発生までの部分は、いずれも後方丙車に乗つていてかなり後方から見た者が、かなりの月日を経過してから指示、供述したところを録取したものであつて、必ずしも正確であるかどうかが疑わしく、これらにつき前認定に反する部分は、たやすく採用できない。

(5)  その他前掲各証拠中、前認定に反する部分はたやすく措信し難く、他に前認定を左右するに足る証拠はない。

三(一)  前認定の事実に基づいて前記一の後段に摘示した争点を判断すると次のとおりである。

(1) 第一事故の発生が甲車の運行に因つて生じたものであることは言うまでもなく、本件事故の発生は、その第一事故により、乙車の前輪タイロツドが曲つたため、乙車が操行自由を失い、後記乙車自体の走力と相俟つて大津行車線へ突つ込んだことに因るものであるから、第一事故の発生と直接に因果関係が存し、ひいて甲車の運行とも因果関係が存するものと認めざるを得ない。尤も左記(2)のとおり、乙車の大津行車線への暴走および本件事故の結果の増大につき、被告勝も無過失ではないと認められ乙車の側にも原因の一部が帰せられるべきものではあるが、そのことによつて右甲車の運行と本件事故との因果関係が中断されるものとは到底認められない。

(2) 被告勝は前方二八・八〇米に甲車が中央分離線を超えて対向して来るのを認め乍ら六米ほど進行して左へ避けようとしたことは認められるが、前記のように第一事故の発生までにブレーキを踏んで減速徐行しようとしたとの同被告の主張はにわかに採用し難く、結局ブレーキを踏んだとの立証は不十分となさざるを得ない。しかして、若し、甲車の発見時直ちに減速・徐行していたならば、第一事故の発生そのものを防止し得ないとしても、その事故の態様はかなり異つたものとなつていたことも考えられるのみならず、第一事故の発生に次いで即座に乙車を停止に導き、大津行車線への暴走を喰い止め得たことも考えられる。また、右大津行車線への暴走が、前記のとおり、第一事故により前輪タイロツドが曲つたことによるものであつたとしても、前記の様に被告勝においてブレーキを踏んだと認められず、五〇粁のスピードのまま第一事故に遭遇したこととなるからには、前記二・七五屯の積載量超過であつたことも、第一事故の衝撃力および右暴走時の乙車の走力を一層強いものたらしめ、丙車を一八米も後退して押しやるという本件事故の結果の重大さの一因ともなつているともみられるのであつて、本件事故の発生およびその結果につき、被告勝が無過失であつたとの証明が尽されたものとは認められない。

(二)  もつとも、前記タイロツドの曲りが、第一事故によつて生じたものか、本件事故によつて生じたのかを直接に証する証拠はない。しかし、被告勝が第一事故の発生直前から、左へハンドルを切つて乙車を左へ寄せようとしていたことは前認定のとおりであり、第一事故発生時点では、乙車はその左側が今津行車線の左端との間隙をほとんど余まさないまでに左側へ寄つていたのであり、仮に被告勝がそのまま左側竹籔へ突つ込むことを避けて右へハンドルを切つたとしても、前記大津行車線に乗り入れるほどに大きくハンドルを切るということは極めて非常識な行為であり、運転手としてその様なことはしないのが通常である。すると、本件の場合、被告勝が第一事故の発生で気が動てんして、右重大な注意義務に反して、ハンドルを大きく右へ切つてしまつたと見るべきか、それとも、被告勝が供述する様に、ハンドルの操行自由が失われ、なすところなく、右へ転向したとみるべきであるが、前記タイロツドの曲りが認められ、それが第一事故によつてではなく、本件事故によつて生じたとの確認もない以上、右被告勝の供述を排して同人が異常な運転をしたと見るよりは、むしろ同人の供述に信を措き、タイロツドの曲りは第一事故によつて生じ、ために乙車が大津行車線に突つ込んだと認めるのが相当である。

四  〔証拠略〕によると、甲車は、同被告の保有する自動車であつて、本件事故時自ら運行の用に供していたものであることが認められ、乙車が被告勝の保有車であつて、同人が運行の用に供していたことは、原告らと被告西村両名間に争いがなく、前記のとおり、運転者無過失の抗弁が認められないので、その余の免責事由に及ぶまでもなく、被告土井、被告勝は自賠法三条により、後記原告らの蒙つた損害を賠償すべき義務がある。

五  〔証拠略〕によると、乙車は、被告勝が自己の資金で購入した自動車であり、同人が被告会社から請負う砂利等運搬の業務に使用していたものであるが、同人は以前被告会社に勤務していた者であつて、その後独立して昭和四五年四月項から、被告会社と専属的に砂利等運搬の請負をする様になり、爾来月に二〇日ないし二五日、全仕事量の九割以上が被告会社の請負仕事であり、当時で月間四〇万円ほどの運賃収入を得ていたこと、運搬業務の具体的な指示は、朝被告会社に赴いてからその命ぜられるままになしていたこと、乙車の車体の塗装色を、被告勝が自らしたことではあるが、被告会社所有の他の車と同色に塗つていたこと(但し、文字は「西村建設」と表示)、被告会社は自らは四、五台の自動車を保有して、砂利等運搬の仕事に使つていること、が認められ、これに反する証拠はない。

すると、被告会社は、被告勝を、その法的形態は一応請負の形態をとり乍らも、本来自社の業務の枢要部分である砂利等運搬の業務に専属的に従事させ、日々の具体的な仕事の割り振りや業務管理を直接になしていたものであり、且つかかる被告勝の被告会社への従属形態が、具体的には乙車の運行管理とともに、右被告会社の支配下へ組み込まれていたのであるから、被告会社は、右被告勝への支配を通じ、乙車についても、それが被告会社が被告勝に請負わした業務に運行される間は、前記自己保有の四、五台の自動車と同じく、これに運行支配を及ぼし、且つその運行利益を享受していたものと認められる。

そして、〔証拠略〕によると、本件事故当時の運行も、右被告会社のためのものであつたことが認められるから、被告会社は、被告勝と並んで本件事故につき自賠法三条に基づく運行供用者責任として、後記原告らの損害を賠償しなければならない。

六  次に原告らは、被告太市が前記被告勝の損害賠償債務を保証した旨主張し、〔証拠略〕中には、これに副う供述が存し、〔証拠略〕には、被告勝が本件事故に関し、「裁判所の判決により、私に損害賠償義務があることが確定した時は、判決に基づき被害者に対する損害賠償は責任をもつてお支払いします。」と記載して署名捺印したのに続き、その奥書の形式で、「但し、私に出来る範囲にかぎります。」との記載に対して被告太市が署名捺印してあつて、この両証拠を総合すると、被告太市が無限定に被告勝の前記債務を保証したかに認められないでもない。しかし、他人被告太市は〔証拠略〕において、この点につき、自己の農業資産に影響を及ぼさない限度で道義的に責を負うことを表現したもので、既に額面一〇〇万円の手形を交付・決済したことでその責を果たしている旨弁疏し、〔証拠略〕は、「その時先方(原告李仁会ら)がどうしても帰つてくれず、血圧も高くてつらいので『少しは何とかしてやる』といつたら、『これに書いてあることに同意せよ』というので、勝に多少は援助してやらんならんという意味で書いた」もので、「自己の財産の範囲内でするという意味ではなく、農業などに支障を来さないということで」あり、自分としては、上記文言で充分そのことを意味すると思つていたと供述するのである。そして、当時から被告勝自身は無過失を主張していたのであつて、それは〔証拠略〕中前掲被告勝の承約文言自体、賠償義務の発生を判決確定まで留保していることからも明らかであり、被告太市もこれを前提として基本的には、保証すべき債務の存在自体を認めていない段階なのであるから、いかに我子のためとはいえ、既に三〇歳に近い成人した息子のため真に自己の全資産を強制換価されてでも全部保証する意思を有していたとは、たやすく考えられず、右被告太市本人の供述に偽りはないものと認められ、〔証拠略〕の結果は直ちに採用し難い。

すると、〔証拠略〕の奥書は、被告太市が前記勝の債務を保証したとしても、その全部ではなく、後日自分が誠意を尽し得る限りの一部につきこれをする意思であつたとみなければならない。尤も、右「私に出来る範囲内にかぎる」との文言はそこに責任の範囲を具体的に明示してない以上法律的にはこれを無限定の保証と解する余地も多分に存するのであるが、被告太市の様に不動産業を兼業しているとはいえ、一介の農業者で必ずしも法律的智識が十分とはみられない者が原告李仁会らに強く要求されて、止むなく息子の負担の一部でも援けようとの意思の下に、他の者が書いた文書を承認する形で署名捺印するに際し、右文言中に有限責任の趣旨が含まれると信じ、且つその範囲を具体的に明示することに思い及ばなかつたとしても強ち無理からぬものがあり、他方原告李仁会らにおいても、その際、単的に「保証します」等全部保証を明白にする文言での署名押印を求めても、被告太市が応じないと思われたからこそ、妥協して有限保証であるかの含みもある文書を使うことによつて、被告太市の納得を得たものと認められるので、〔証拠略〕の文言のあいまいさにも拘らず、有限保証たることは当事者間に暗黙に合意されていたものというべきである。しかし乍ら、その保証の範囲・限度に関しては未だ当事者間に明確な意思の合致がなく(仮に存したとしてもこれを具体的に証する証拠はない)、結局被告太市の責任については、その範囲が確定できないから、同被告が全部保証したことを前提とする原告らの同被告に対する請求は立証不十分として排斥を免れない。

第二損害の認定。

一(一)  別表第一の各欄にそれぞれカツコ書で掲記した証拠により、それぞれその欄記載の該当事実(請求原因三(一)の事実)が認められる。但し原告李仁会の要附添日数は一二七日、通院実日数は五三日と認められ、また原告鄭京植、同金福伊の後遺症等級については後に判断するとおりである。

右認定に反する証拠はなく、右掲記の書証の成立の認否は前掲事実欄記載のとおりであるが、うち〔証拠略〕については、それぞれ左記の証拠等によつていずれも真正に成立したものと認める。〔証拠略〕

(二)  〔証拠略〕と被告勝および被告会社と原告ら間にはその成立に争いがなく、被告土井との間では〔証拠略〕により、本件事故によつて訴外鄭徳守が死亡した事実(請求原因三(二)の事実)が認められ、これに反する証拠はない。

二  前認定一(一)に基づく、受傷原告ら四名の各治療費も、別表第二の証拠欄掲記の証拠により、それぞれ同認定額欄記載のとおり(原告李仁会を除き、請求どおり)であることが認められ、これに反する証拠はない。原告李仁会については、請求額中に、股関節用装具とメガネ(〔証拠略〕)の費用を算入していると考えられるが、これは装具費に分類すべきであり、その請求総額の範囲内であるから右表のとおり認定した。なお、右書証の成立に関する判断は前記一(一)の場合と同様左記に示すとおりである。〔証拠略〕

三  前認定一(一)に基づく入院日数とその傷害の程度に照らし、別表第二の附添費、入院雑費の請求(請求原因四(一)(1)(2))は相当であつて、その主張どおりの損害が生じたものと認められる。(但し、原告李仁会の附添費につき、前記一日分減ずる)

四  〔証拠略〕ならびに被告勝および被告会社と原告間に争いなく、被告土井との間では「証拠略」によると原告金讃柱と原告金福伊は前記受傷のため、それぞれ別表第二装具費欄記載の出費をして、これと同額の損害を蒙つたことが認められる。(原告李仁会については、前記のとおり。)

五  〔証拠略〕によると原告金讃柱は現在もほとんど寝たきりで、家人が手をかけてやつと一〇米位が歩けるほどであり、左手も動かないなど、日常起居にも引続きその介護を必要とし、その状態は同人の余命年数内の一〇年は継続すると認められ、これに反する証拠はない。

しかして、入院又は自宅療養中に家族が附添つたときに、家族附添費として本人の損害に計上することが広く認められていることに鑑み、かかる場合も将来の家族介護料として本人の損害に計上することができるものと考えられ、本件の場合前認定事実に照らし、これを一日五〇〇円として一〇年間継続する前提での原告金讃柱の請求(別表第二、請求原因四(一)(3))は相当である。

六  次に原告ら(含鄭徳守)の休業損害および逸失利益につき判断する。

(以下AないしDの各項中、その項の原告については本文中単に原告とのみ表示する。)

(A)  原告李仁会

〔証拠略〕によると、原告は糸商・薬種商を営み、昭和四三年度に百二、三〇万円、昭和四四年度に百七、八〇万円、昭和四五年度に三〇〇万円ほどの純利益を得ていたが、本件事故による前記受傷のため昭和四六年一二月七日までは右両営業とも全く休業を余儀なくされ、その間同年一二月二日前認定の後遺症が固定したが、糸商は重い荷物を持つことができないため廃業し、昭和四七年九月から大津市内で貸店舗を借り会社組織で薬局を経営していること、事故前の両業種による稼働収益のうち七割は糸商の収益であつたことが認められる。なお〔証拠略〕によると、昭和四五年度の申告所得は五三七万五、〇〇〇円となつているが、〔証拠略〕によると、右は同年度の不動産譲渡所得二〇〇万円ほどが含まれていることが認められるから、右営業利益は前記のとおり三〇〇万円と認めるのが相当である。

前認定事実によれば、原告の当時の右両営業による平均的年間所得は二八〇万円と見積るのが相当である。よつて原告は、

(1) 休業損害として事故後一年間分 二八〇万円

(2) 逸失利益として、その後五年間に四二七万六、七二〇円

(算式)280万円×0.35×4.364≒427万6720円

の各損害を蒙つたことが認められる。

尤も右(1)については、後遺症固定日は昭和四六年一二月二日であるが、前認定事実によればその後しばらくは薬局再開準備のため引続き休業を余儀なくされたものと認められるので、少くとも原告主張の事故後一年間までの範囲内にあつては、全休業損が事故と相当因果関係にあるものと認められる。また(2)については、その年の八月末日までは休業していたので、全休業損として計算すべきではないか、又九月以降においては、糸商を廃した余力を全部薬局に振り向けており、薬局経営につき、後遺症の影響は必ずしも明白でないなど、個別に検討すれば、一率に前記三五%の労働能力喪失率と同率の減収があるとすることに問題はあるけれども、原告の稼働能力の喪失それ自体を損害とみて前記のとおりに認定する。(なお、八月迄の休業期間は薬局再開準備のためともみられるが、必ずしも全休しなければならなかつたかどうかが不明である反面、九月以降については、糸商廃止の余力が薬局に振り向けられたとはいえ、従来糸商での収入は七割にも及んでいたこともあり、これらを綜合すれば、右五年間の減収を全体として把握した場合、具体的にも前記三五%程度のものと大差なくなるものと推定できる。)また、右継続期間は、前記後遺症の程度に照らし、これを五年とする原告の主張は相当である。なお、原告は、遅延損害金の起算日を訴状送達の翌日としているから、逸失利益算定の基準日を事故の日の一年後として計算することによる支障は生じない。

(B)  原告鄭京植

〔証拠略〕によると、原告は、永年土木工事関係の仕事に従事し、昭和三〇年代の後半からは主として、他人の下請をしていたが、昭和四四年六月頃から訴外洪山次郎と共同して国鉄湖西線の建設用土砂の土取り、販売をすべく、二〇〇万円ずつ出資し更に銀行から一五〇万円の融資を受けて、山土の採取権を取得してその採取・販売の事業を行つていたところ、本件事故に遭い、原告が現場へ出られなくなつたことも一因となつて右事業は中途で挫折したが、昭和四八年三月頃から再び洪山とともに山の土取りの仕事をするようになつて、三月中頃から六月三日までの間に太陽建設からの請取り仕事で一人当り三五万円程の収入を挙げ、その後も一応の仕事があることが認められる。

すると原告の休業損害は、事故の日から前認定の入・通院の期間を含め、右太陽建設の仕事を再開する昭和四八年三月一五日(中旬としか認定できないので、一五日とみなす)までに労働省発表の昭和四六および四七各年度の「賃金構造基本統計調査報告」(最高裁事務総局発刊・民事裁判資料一〇三号・一〇七号登載)により、その間の年令四〇―四九歳の一般男子労働者(旧中・新高卒)の平均労働賃金収入を下らない合計三五四万七、五六五円の休業損失を生じたことが認められる(その算出根拠は別表第四のとおりである。)。

原告は、この点年収二〇〇万円であつたと主張し、その計算根拠に(イ)昭和四二年一一月当時の原告の労賃と、(ロ)洪山に雇われて年間二〇〇万円の収入を得ていたことを援用する。

しかし、右(イ)については、〔証拠略〕によると、原告は当時三原組に雇われ、コンクリート割りの作業に従事して日給六、四一七円を下らなかつたことが認められるが、その作業で右足くびの骨折をしたことが認められるから、以後その様な重労働に就く稼働能力は低下したと認められるので、本件事故時の収入算定の資料には採用できず、(ロ)は前認定のとおり共同事業であつて雇傭ではない。〔証拠略〕には給料として一ケ月一〇万円と四〇万円のボーナスを二回支給したと記載されているけれども、これは、〔証拠略〕によると、結局前認定の分配利益の先取りともみられるのであつて、これをたやすく労務賃金とみなす訳にはいかず、結局当時の原告の抽象的労働能力の価額を把握する証拠はないので、前記一般的統計資料に基づいてこれを算定するのが相当である。なお、〔証拠略〕によると、右訴外洪山との共同事業は、これが成功すれば相当の利益を挙げ、一時的には年収二〇〇万円位に達することもあり得たと認められないではないが、右はあくまで一過的な事業であつて、原告が恒常的にそれだけの収入を挙げ得る稼働能力の保持者であるかどうかはなおこれを認めるだけの充分な資料がないので、抽象的な休業補償や逸失利益の基礎に、この様なたまたま事故当時の特殊な事情で一時的に高収入を得べかりし状況にあつたからといつて、これを採用することはできない。

次に逸失利益については、原告は前記後遺症が八級と認定されたことから六七歳までの二四年間に亘り、四五パーセントの労働能力を喪失したと主張する。しかし〔証拠略〕によるも前認定の様に一応昭和四八年三月から六月にかけて三五万円の収入を得ていることが認められ、これが請負仕事を受注し、下請にやらせるという自己の労働能力の減退度とは必ずしも一致しない事業によるものであるにせよ、原告主張の年収二〇〇万円の一七・五%の減収にしかなつていない数値であること、〔証拠略〕によると始め原告は一一級の認定を受けたこともあつたことに照らし、原告の場合、右後遺症のもたらす減収率は三〇パーセントであつて、またその存続期間も後遺症の内容に照らし、一生涯回復できないとは認められず前記昭和四八年三月一六日から(後遺症固定時は前記のとおり、同年一〇月三一日であるが、前記の様に三月一六日から収入を得ているので、同日以後とする)一五年間と認めるのを相当とする。(なお原告は遅延損害金起算日を後遺症確定日後にずらして請求しているから、基準日を前日時とすることに妨げはない。)

よつて原告の逸失利益は、その収入の基礎として前掲別表第四に示した昭和四七年分の平均年収を基礎に計算すると、五六一万〇、〇九〇円となる。

(算式)1,703,000円×0.3×10.9808=5,610,090円

(C)  原告金讃柱

〔証拠略〕を総合すると、原告は撚糸業と糸商を営んでいて、昭和四五年度において撚糸業の収入として、その売上が、

対日本重布工業株式会社 一、四七九、七一七円〔証拠略〕

対旭合繊維株式会社 八四六、三〇六円〔証拠略〕

対増田繊維工業株式会社 二四八、五一三円〔証拠略〕

対紺藤織物株式会社 七五三、六五六円〔証拠略〕

対一井修一商店 六、四〇〇円〔証拠略〕

対有限会社中善撚糸工場 一、一八〇、一九二円〔証拠略〕

の合計四、五一四、七八四円に達し、その営業経費として、税務申告に挙げたものが二四五万円余であつて、二〇〇万円以上の利益があり、糸商の収入としては、売上げが四、三二三、〇二〇円〔証拠略〕であつて、利益はその二割位であることが認められるから、併せて、原告主張の年間二〇〇万円の利益は少くともこれを収めていたと認められ、これに反する証拠はない。

そして、前記受傷(後遺症を含む)のため、原告自身は、全く就労不能となつたことが認められるが、右原告の撚糸業、糸商は、従来原告の他に家族二名もこれに従事していたことが認められるから、原告自身に留保されるべき営業利益は更に雇人二人の給与に相当する金額を差し引いたものとすべきであり、〔証拠略〕によると、右一人分は一ケ月二万五、〇〇〇円と認められるので、年間金六〇万円となる。よつて、原告自身に生じた逸失利益は年間一四〇万円であり、前認定のとおり、原告は生涯就労不能となつたものであり、前記証拠により事故時六一歳であつたから、事故後五年間は稼働し得たと認められるので、事故時の現価額は六五四万六、〇〇〇円となる。(原告主張の七年間は長きに失する。)

(算式)140万円×4,364≒654万6,000円

(D)  原告金福伊

〔証拠略〕を総合すると、原告は各種屑物(屑鉄、いろ物、ウエス、糸屑、紙屑等)の収集・販売を業としていて、昭和四五年中に扱つた分の販売代金は請求原因四(一)(4)の(D)項主張のとおり三、八三七万九、六〇〇円となることが認められ、被告会社、被告勝につき成立に争いがなく、被告土井につき〔証拠略〕によると利益率が八分九厘三毛であつて、年間純利益は三〇〇万円を下らないことが認められる。

もつとも、〔証拠略〕には右収入金額は一、六九〇万円と記載されている。しかし〔証拠略〕によると、右は朝鮮商工会の指導もあつて、真実の売上を隠して故意に少額に申告したものであることが認められるので、右申告書の記載は前認定の妨げとはならない。(過少申告の違法と損害実額の確定は別個の問題とみなければならない。)

しかし〔証拠略〕によると原告は同事業に妻と息子三人も協力していて、本件事故後もその規模は相当縮少されたものの、営業が全く廃されたものではなかつたことが認められるので、前記営業利益のうち原告自身に留保されたものは、その八割の二四〇万円と認めるのが相当である。

ところで、原告は後遺症を「脊柱に著しい運動障害を残し」た点において六級四号に、「一上肢に仮関節を残し著しい運動の障害を残す」点が七級九号にあたり併せて四級となるので、少くとも七割(四級の場合は九割二分)の労働能力を喪失したと主張する。しかし、〔証拠略〕によつて認められる後遺症の具体的内容は別表第一のとおりであつて、右主張がいずれから導き出されるのかも明らかでないうえ、〔証拠略〕によれば、現在では重たい物を上げ下ろしすることはできないが、一応の立ち振舞いは可能であつて、他に日常生活に不便を感ずることはないものと認められるので、五級程度、六割の喪失に止り、その存続期間も、症状固定時から一〇年間と認めるのが相当である。

よつて、原告は、

(1) 休業損害として五〇四万三、二八七円

(算式)<省略>

(2) 逸失利益として昭和四八年三月三日の現価額一、一四四万〇、八〇〇円

(算式)240万円×0.6×7.945=1,144万0,800円

の損害を蒙つたことが認められる。

(E)  訴外鄭徳守(以下徳守と表示)

〔証拠略〕によると、徳守は事故当時、自作田二反を所有し、他に一反を小作し、合計三反の田を耕作し、二〇俵ほどの収穫を得、これを主として、自家消費に回し(本人と妻、息子三人、嫁、孫三人の九人家族)、その余の家計は、主として近在の農家から闇米を買い集めて、大阪市西成区玉出本通五丁目五八番地の川西商店へ転売することでまかなつていたことが認められ、これに反する証拠はない。

原告らは右闇米の扱高が昭和四五年度において七、二〇〇俵でその利益が一俵四〇〇円であると主張し、これを基準とする徳守の就労可能期間の逸失利益があると主張する。しかし、右闇米の売買取引は食管法に違反する法禁行為であるのみならず、前掲証拠によれば、ちようど本件事故発生の項から自主流通米が出廻り、闇米の需要そのものが、それまでとは異り低下したうえ、専属的な売先であつた川西商店自体も本件事故後間もなく正規の登録店となつて、本件事故の存否に拘らず、徳守との取引は停止されることとなつたことが認められ、代替の売先を開拓し得たことの立証もないので、本件事故後も、右闇米の扱が安定して継続し得たことを前提に、その実績に基づき逸失利益を算定する原告らの主張は理由がない。

従つて、徳守の稼働能力も前記原告鄭京植の場合と同じく、平均的稼働収入によつて把握せざるを得ないので、前掲同原告の場合に用いた資料によつて、同人の年収を一〇三万三、五〇〇円と推定する。(その算出根拠は別表第四のとおりである。)

そして、本人の残存稼働年数を五年とする原告らの主張は相当であるが、生活費控除は、他に田を有していた点を考慮し、二割と認めるので、逸失利益の死亡時現価額は、三六〇万八、一五五円となる。

(算式)1,033,500円×0.8×4.364=3,608,155円

七  慰謝料について。

(一)  原告李仁会、鄭京植、金讃柱、金福伊については前記傷害の程度、治療経過、後遺症の態様その他諸般の事情に照らし、その慰謝料額は、別表第二の各認定欄に記載の金額(原告金讃柱につき請求どおりであるが、他はその請求は多額に失する。)が相当である。

(二)  〔証拠略〕によると原告李分出は徳守の妻、原告鄭龍瑞、同泰瑞、学瑞、今礼、順礼、玉伊、閏瑞はいずれもその子であることが認められ、同人らが一家の支柱である夫または父を失つた精神的苦痛は大きく、その慰謝料額としては客観的には原告李分出につき一七〇万円、その余の原告らにつき各自四〇万円を下らないものと認められる(原告らの請求との関係は後述)。

八  原告李分出の葬儀費用について。

〔証拠略〕により、別表第三の(一)のとおりに認めることができる。

第三原告らの請求について。

一  原告李仁会、鄭京植、金讃柱、金福伊の請求について。

(一)  第一、第二に判示のところから、被告土井、被告会社、被告勝は第二に認定した原告らの損害(別表第二の各認定損害合計額欄記載のとおり)を賠償すべき義務がある。

(二)  被告らの時効の抗弁は原告鄭京植の附添費用中二万円についてのみ理由がある。この点、被告らは原告鄭と金福伊の請求中時効にかかる部分を特定せず、前掲事実欄抗弁一記載のとおり主張し、これに対し両原告から同欄のこれに対する答弁のとおりの主張があつたのに対しその被告の主張に該当する費目が原告鄭の前記損害部分と原告金の慰謝料の拡張部分だけである旨の主張に対し、何ら具体的反論をなさないので、右費目の点では当事者間に争いがないものと認める。しかして、原告金の慰謝料に関しては、前掲事実欄記載の原告の反論は理由があるが、原告鄭の附添費については、その主張は理由がないので、右部分につき同原告の請求は二万円の減額を免れない。

(三)  そして、右各損害につき原告らがそれぞれ別表第二記載の弁済<1>を受けたほか、原告李仁会と金福伊がさらに二万円ずつの弁済(同表弁済<2>)を受けたことは当事者間に争いない。

すると、原告ら各自の被告らに請求し得べき損害残額は同表各認定欄記載のとおりである。そしてこの認容額と本件訴訟経過に照らし、各被告らに請求し得べき弁護士費用額は同表該当欄記載のとおりである。

二  原告李分出、鄭龍瑞、鄭泰瑞、鄭学瑞、鄭閏瑞、鄭玉伊、今礼、鄭順礼の請求について。

(一)  〔証拠略〕によれば、原告らはいずれも、請求原因四(二)(2)主張のとおりの法的地位にあつて、その主張の相続分による徳守の相続人であることが認められる。なお〔証拠略〕中に記載の鄭東秀は、原告代理人の釈明によれば原告鄭龍瑞の本国名であるとのことであるから、他に相続人はない。

(二)  すると、原告らは前記第二の六(E)に判示の徳守の逸失利益三六〇万八、一五五円を右相続分に従い相続したものである。

(三)  そして、原告らが第二の七(二)に判示の各慰謝料請求権を有し、更に原告李分出は葬儀費用の損害賠償請求権を有する。

(四)  ところで、原告らは、自賠責保険から四九二万円、被告らから二三万円の合計五一五万円の支払を受けたので、これを全部逸失利益相続分に充当すると主張するのであるが、本件事故当時施行の政府の自動車損害賠償保障事業損害てん補基準によると、死亡の場合、逸失利益と葬儀費は各査定実額、本人の慰謝料が五〇万円以上、遺族の慰謝料は三人以上の場合、死者一人につき二〇〇万円以上とされているところ、右四九二万円は当時の支払限度額五〇〇万円に満たない金額であるから、それは少くとも、本人慰謝料五〇万円、遺族慰謝料二〇〇万円を含み残二四二万円が葬儀費用と逸失利益として支払われたものと見なければならない。すると、右自賠責保険の充当は、原告らの主張に拘らず、内五〇万円は本人慰謝料に、内二〇〇万円は原告ら固有の慰謝料に、内二五万円は葬儀費用に充当し、残二一七万円を逸失利益相続分に充当すべきである。被告らの弁済二三万円は主張どおり逸失利益相続分に充当する。

(五)(1)  よつて、原告らは、前記徳守の逸失利益三六〇万八、一五五円から右自賠責よりの補てん二一七万円と被告らの弁済二三万円の合計二四〇万円を控除した一二〇万八、一五五円を前記相続分に応じ、別表第三の(二)のとおり相続したものである。

(2)  次に原告らの慰謝料請求については、自賠責保険金の充当関係が前記のとおりであるからには、原告らの請求は、右二〇〇万円を充当した残額の請求(結局総額においては、五〇〇万円)と善解できるので、前記第二の七(2)に認定の金額(総額四五〇万円)から、右二〇〇万円を原告が別表第三の(一)で請求する金額の割合に準じて配分控除した別表第三の(二)の金額を相当とする。

(3)  原告李分出の葬儀費用は前記のとおり自賠責保険金により充当され残額はない。

(4)  すると、原告らが本訴において請求し得べき残損害は別表第三の(二)のとおりであるから、その認容額に照らし、請求できる弁護士費用は同表記載額が相当である。

三  結論。

以上の次第であるから、原告らの請求はいずれも被告土井、被告会社、被告勝に対し、原告李仁会、鄭京植、金讃柱、金福伊につき各別表第二の最終計認定額欄記載の金額、その余の原告らにつき別表第三の(二)の最終計欄記載の金額およびいずれも内弁護士費用を除いた金額につき原告李仁会については訴状送達の翌日、原告鄭京植、金福伊については後遺症固定の日、その余の原告らについては不法行為の翌日である各主文掲記の日から支払済に至るまで年五分の法定遅延損害金との支払を求める限度において正当として認容し、右被告らに対するその余の請求および被告太市に対する請求は失当として棄却すべきものとして、民訴法八九条、九二条、九三条、一九六条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 潮久郎 笠井達也 仲野旭)

別表第一

<省略>

別表第二

<省略>

別表第三の(一)

<省略>

別表第三の(二)

<省略>

別表第四

<省略>

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